46歳・今の時点で、これまでのことを振り返ると・・・

46歳。

今の時点で、これまでのことを、どうすればよかったのだろうと振り返る。

 

 

幼少期に泣くことすらやめてしまったことは大きな分岐点だった。

その後も小学校低学年のころは私なりに助けを求めていたように思うが、伝わらず。

(辛すぎて、泣きながら母に「○にたい」と言ったような記憶もあるが、たった一度ではそりゃ伝わらないだろうと今の私でも思う)

 

数年前、気づいた過去の苦しみに飲まれながらも、何とか、これまでの気持ちをまとめて母に伝えたけれど、その内容は間違っていた。

「子どもの頃、もっとかまってほしかった」と言ってしまったけど、そうではない。

「かまってほしかった」んじゃない。

ただただ、私の未熟な言葉の羅列に耳を傾け、その向こうに見え隠れする私の困っている心に目を向けてほしかった。

アドバイスや同情、相槌すらもそれほど重要ではなかったんだ、と。

つまり、この子は何を考え、何を感じているんだろう、と、黙って聞いてくれさえすればよかったんだよ、と。

 

とはいえ、私も子ども。

母も親となって数年。

どちらも未熟なもの同士、どうしようもなかったと思える。

 

子育てというものは誰もが失敗するんだろう。

私が苦しかったのもしかたない。

でも、だからと言って、許せるかと言えば、そんなに簡単なことでもなく。

 

過去の苦しかった事実に気づかなければ、今も普通に実家のみんなと接することができていたと思うと、気づかなかったほうが良かったのだろうかと考える。

とはいえ、これまでの自分の変遷を知ることで、初めて私は「私」という人間になれた。

過去の自分が、ようやく今の自分と重なったような感覚。

そして、そうなったことで、初めて心と脳が動き始めている。

 

本を読んでも文章が頭に入ってきやすくなった。

映画を観てても心が揺れ動き面白く感じる。

家族と話していて、おもしろいと腹の底から笑いがこみ上げてくる感覚。

以前の私は、「ここは笑うべきところだから笑う」といった感じで笑っていたんだと、今はわかるほど。

 

そう思うと、過去に気づくことで、実家のみんなと以前のように接することはできなくなり、過去の苦しみはのりのようにべったりと心に貼り付いているものの、自分という人間がちゃんと「機能」しているという健全な感覚を取り戻すことができたということだ。

 

息はしてても、心はしんでいた。

そんな過去より、今のほうがずっとずっとずっと幸せには思える。